海は彼方。空も遠く。


「ヤだ。行きたくない」
 そいつは、ベッドの上で身の丈の二倍はあろうかというタオルケットを被って丸まり、外界との遮断を図ろうとしていた。
 この部屋に来てもう三十分は経過していた。それは説得から三十分が経過したと同義だ。
 ここまで頑なな態度を取られては、取り付く島もない。
「元々、取り付けるような出っ張りも無いけどな」
「誰が断崖絶壁洗濯まな板よッ!」
 タオルケットのダンゴムシが抗議の叫びを放った。
「あ、お前もしかしてソレを気にして駄々こねてるのか?」
「うっさい、この天パ!」
「人の生まれ持った身体的特徴を罵倒の材料にするのは人として最低だぞ」
「あんたがッ! 先に! 言い出したんでしょうが!」
 タオルケットから足だけが伸びてきて、俺のスネを容赦なく蹴っ飛ばした。
「痛ェですよ」
「次は急所狙うかんね! 健全な青春を送りたかったらさっさと諦めて出ていきなさいよ」
「はいはい……」
 仕方ない。出直すとしよう。そんなわけで、俺は部屋を出た。

   海は彼方。空も遠く。

 雲一つ無い青空に輝く太陽がジリジリと空気を焦がす。
 ともすれば玉子でも焼けそうなアスファルトを確認するまでも無く、現在時制は夏真っ盛り。
 俺……浅柄啓太がさっきのダンゴムシ、もとい辻宮茅を海に誘ったのは一週間前。
 夏になってから計画を立てるのは若干のんびりし過ぎてる感じはするものの、平たく言えば着替えと水着さえありゃ事は足りるのだし、たかが海に行くだけなのだからそんなに準備期間は必要ないだろう。そんなわけで今から一週間前に『海へ行こう』とこれ以上ないぐらい明朗会計、じゃなくて明朗快活に茅に伝えたのだ。
 その時の茅の返事は二つ返事でOK、だった。それが一体どうしてこんな事に……。
 当日、つまり今日になって家まで迎えに……と言っても歩いて一分程度の近所だが……行って部屋に上がったはいいものの、そこには断固として海行きを拒否するダンゴムシが居たのだった。
「暑ぃ……」
 たった一分の距離を歩いただけで額から汗が流れてくる。自分の家の前に戻ってきた俺はアイドリングさせておいた車内に飛び込んだ。
「おぉぅ! 涼しー!」
 エンジンをかけてから茅を迎えに行って、さぁ行こうと車に乗ったら何これ既に涼しいじゃないの流石気が利くわね、みたいな。
 現実には三十分もの長時間のアイドリングとそれに伴うガソリンの消費。あと、結局一人でこの涼しさに身を委ねている虚しさ。
 クーラーの冷気によって、体が冷えると共に頭も冷えてきた。
 よし、ここは落ち着いてどうやったら茅と海に行けるか、を考えよう。
 まず行きたくなくなった原因として考えられるのは……まぁ、茅も出るトコ出てないとはいえ女の子だし、ねぇ。《あの日》だったんだろうか?
 でも海に行こうって誘ったのは一週間前だから、当日ダメかどうかはその時点で解るハズだろうからこの線は無いか。
 次に考えられる原因は……あぁ、もう解らん。
 まさか本当につるぺったんな体型を気にして、とか?
 それこそ今更だし、この理由にしたって一週間前にOKの返事をしたのに理屈がつかん。
「直接聞いた方が早いんだろうか」
 でもあの様子じゃ、取り付く島が全然無い。まぁ、元々取り付けるような出っ張りは……ってこれはさっきもやったか。
「しゃーない」
 ひとまず車のエンジンを落とし、再び茅の家へと向かった。
「お、ダンゴムシがミノムシになっとる」
 多少は落ち着きを取り戻したのか、タオルケットから顔を出して壁にもたれるようにベッドの上で座っていた。
 ミノムシの目は、少しだけ、赤かった。
「……何よ」
 拗ねたようなジト目でこっちを睨んでくる。おぉ怖い怖い。
「いやな。さっき聞くのを忘れてたんだが、結局の所どうして海行きたく無いんだ?」
「…………」
「不甲斐無い事だが、俺にはさっぱり見当がつかん。出来たらお前の口から教えてくれないか」
 近所にあるプレス工場のプレス機ぐらい重い重圧と空気が部屋に充満した。
 互いに沈黙。俺はドアの前で立って立ち尽くして茅の次の言葉を待つ。
 茅は沈黙しつつ、指先でタオルケットを軽く弄ったり目を伏せたり、何だか弱気だ。
 これじゃ、俺が茅を苛めてるみたいじゃないか……。
 それから数分、決心がついたのか、茅が口を開いた。
「……から」
 ん、なんだって?
「……水着が……選べなかったから……」
「……つまり、水着が決まらなくて行きたくなくなった、と」
「違う。行きたいけど行けなくなった。の」
「あっそ。ったく、それならそうと早く言えっての」
「うっさいわね。しょうがないじゃない……」
 ふと、床に目を落とすと雑誌が転がっていた。何冊も。表紙から察するにファッション誌だろう。
 気になったのは、雑誌の名前がどれも違う事と、どれもが同じ八月号だという事。
 で、表紙の見出しには《この夏に着ていく水着百選》とか。《有名ファッション評論家が教える今年の流行水着》とかとか。
 あぁつまりそういう事か。海に誘ってからこの一週間、ずっとどんな水着を用意するか考えていたけど、終に決まらなかった、と。
「アホらし……」
「誰がアホよ!」
「お前と俺以外の誰がアホだってんだ。いいからさっさと出掛ける準備しろ」
「だからッ」
「今から買いに行くんだよ。お前に似合うのを俺が選んでやる。それならどんな水着でも文句ないだろ?」
「え…………あ、…………うん」
 そのか細い、けどしっかりとした返事を聞くと、俺は部屋を出た。
 まったく可愛いじゃないか。俺に見せるための水着を一週間雑誌を買い漁って考えて、それでも尚決まらなくて、終いには癇癪起こしてちょっと泣いたりして。
 付き合い甲斐があるってもんだ。彼氏冥利に尽きる。ってこれじゃ完全に惚気だな。
「おまたせ」
 茅の準備も終わったようだし、それじゃ出掛けるか。
 俺の隣にいる彼女は本当に俺を幸せにしてくれる。
 人一人分のカタチを持って、幸せがそこに存在している。

「ヤだ。もう帰る」
 市街の大型デパート。その水着売り場。
 付き合い甲斐のある俺の彼女は、またもや癇癪を起こしかけていた。
「あー……その……なんだ。……どんまい」
「慰めはいらねぇ!」
「無様だな」
「本音はもっといらねぇ!」
 悉く、サイズが合わないのだ。別に茅は極端に痩せてるわけでも極端に太ってるわけでもない。
 ただ……そう。ちょっとばかり……胸が足りなくて……童顔で……幼児体型とはいかないまでも、成人女性の『小さい』の基準より小さかったのだ。
 サイズが合うのはどれも大きめの子供用水着ばかりで、置いてあるのはどれも成人女性が着るにはデザインに難ありのモノばかりだった。
 そうか……茅が一週間悩んでたのは、まぁ確かに俺に良いのを見せたいからというのもあったのだろうが、自分のサイズに合うのが無いってのも種の一つだったのか。
 ふと売り場の隅を見ていたその時、俺に電流走る……ッ!
「茅、これならいいんじゃないか?」
 そう言って俺が示したのは、紺色のいわゆるスクール水着。
 直後、平手が飛んできたのを認識したのは、パァンという乾いた音が俺の耳に三回ぐらい反響してからだった。
「死ね」
「いや待て落ち着け話せば解る。いいか? もうここまで来たら茅のその幼児体型……じゃない、若さに満ち満ち溢れた体に似合うのはアレしかないと思うんだ。確かに若干の抵抗があるのは理解出来る。だが、キャラクターがプリントされた水着や、ヒラヒラとキラキラの入り混じった見た目にも子供だと解ってしまうような水着よりも、アレのフォーマル性と遠目で見た時の大人しさを考えると、もうアレしか残された道はないと思うんだ」
「死ね」
 再びパァン。
「痛ェ……。もっと言うと、純粋にアレを着た茅が見たい」
「死ね」
 三度パァン。
「……………………はぁ。解ったわよ。着ればいいんでしょ着れば。それに啓太が水着を選ぶって話だったしね」
 しばらく黙考した後、茅は投げやり気味にそう言い捨て、スタスタとスクール水着を手に取り、スタスタとレジまで行き、スタスタと帰ってきた。
「さ、早く行きましょう」
「お、おう」
 二割ほど冗談だったのだが、何はともあれこれにて一件落着。
 ようやく俺たちは海に行く事が出来たのだった。





 オ……オチたのか? そんなわけでラブコメってみました第二弾。
 知り合いから聞いた話に8割ぐらいの脚色をして書いてみました。

 海は自分あんまり行かないんですよね。泳ぐのとかは好きだけど、海は何か汚い感じがしちゃって……。
 というのも、海に浮いてる海藻とか岩場の近くのフジツボとか、あぁいうのが生理的に苦手なんですよ。
 だから、海はあんまり行きたくないんですよね。日焼け耐性も無いし。
 クーラー万歳! ひきこもり万歳! 駄目だこいつ早く何とかしないと。
 あとがきBlog:「海は彼方、空も遠く。」