「よ、霊夢」
相変わらず閑散とした博麗神社の境内に魔理沙は降り立った。
空飛ぶ魔法の箒で境内の砂利を擦りながら、縁側でお茶を飲む霊夢の元へと歩いていく。
「いらっしゃい。まぁお茶ぐらいは出してあげるわよ。あと素敵な賽銭箱はそっち」
いつも通りの歓迎文句を並べて魔理沙のお茶を淹れようと立ち上がった霊夢の耳に聞き慣れない音が響いた。
いくつかの金属がぶつかる「チャリン」という音と、固いモノが木材を叩く「コン」という音。
驚いて振り返ると、そこには賽銭箱の前で手を合わす魔理沙がいた。
「……どういう風の吹き回し? それは貯金箱じゃないわよ」
「もちろん、知ってるぜ」
魔理沙は目を閉じて表情を作らず、僅か数秒何かを祈る。
「ま、特別なお茶請けも出してあげるわ」
そう言いながら霊夢は奥へと消えていった。
縁側に腰かけた魔理沙はしばし無人の境内を、ぐるりと見回す。
今日は風が凪いでいた。青空に浮かぶ雲は微動だにしない。
「はい。お茶とお煎餅」
「おぅ、ありがと」
お茶を渡すと霊夢も同じように縁側に座った。自分のお茶を一口飲み、そして魔理沙をジッと見つめる。
「なんだよ?」
視線に気づいた魔理沙が口を尖らせた。
「別に。……悪い霊にとり憑かれたのかと思って」
お賽銭を入れた事ではない。ただなんとなく、いつもと雰囲気が違う気がする。
「……なんでもないぜ」
いつもの笑顔……に見せかけた作り笑いと、その言葉が決定的だった。
「魔理沙。今日は神社仕舞だから、帰りなさい」
「え?」
「お煎餅は持ってっていいから、はい立って、飛んで」
立ち上がった霊夢は無理やり魔理沙を縁側から立たせた。
「おい、何だっていうんだ」
「それはこっちの台詞よ。手慰みにウチに来るのはいいけど、慰みに来るのは止めなさい」
「なっ……!」
「じゃあね」
そう言い捨てて霊夢は奥へと消えていった。
「……ちぇ」
ココに来れば……霊夢に会えば、こうなる事は解っていたハズなのに。
やはりいざ現実、そういう対応をされるとやはり辛い。
「折角、ご機嫌取りに賽銭を入れてやったのに、効果はなかったか……」
ずるずると箒を擦りながら境内を後にする。長い石段を、重い足取りで下っていく。
飛べば降りる必要もないのだが、今は何となく飛びたくない気分だった。
一段、一段、また一段。ゆっくりと、重い足取りで、石段を、降りていく。
「はぁ……上手くいかないな」
苦笑いを綻ばせようとするが、それも出来なかった。涙腺ばかりが緩く、いっそ蹲って泣きたい衝動に駆られる。
「ただ、それが出来ないのも『私』、か」
人前や外で泣き喚くなんて霧雨魔理沙ではない。それを一番知っているのは自分自身。
本当は、今こうやって泣きたくて堪らない気分になっている事さえも、自分の性分ではないハズなのに。
―――夢を見た。
それはただの夢でしかなく、夢が現実に牙を向く事は絶対にないなんて理解しているのに。
「幸せって何だろうなぁ……」
また一段、石段を踏み降りる。この石段は今の自分には果てのない長さのように思えた。
「山のあなた(彼方)の空遠く、幸い住むと人の言う」
「!?」
突然の声に俯いていた顔をあげると、八雲紫がそこに居た。
「はぁい」
「お前か。霊夢なら神社にいるぞ」
「えぇ、そうね。ところで貴女は何をそんなに落ち込んでいるのかしら」
「霊夢に追い返されたからな。賽銭まで入れてやったのに、血も涙も無い巫女だぜまったく」
『落ち込んでいる』と。そう言われた事に、なぜか安堵を感じてしまった。
「ふぅん……。ま、今の貴女ではそれも仕方ない事よね」
「お前まで私を除け者にするのか」
紫は持っていた日傘をくるりと回す。傘の下の彼女の表情はいつもと同じ底の知れない微笑み。
「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う」
紫は、同じ言葉をその微笑みのまま呟いた。
「何だそれは?」
「貴女が幸せの在り処を知りたがっているようだから、教えてあげてるのよ。山の彼方の遠くの空に、幸せがあると私が言うのよ」
それだけ言うと、紫は軽い軽い足取りで石段を登っていった。
「あいつでも石段を昇る事があるんだな」
その後ろ姿を適当に見送った魔理沙は、箒に跨り空を飛んだ。
「行ってみるか」
山のずぅっと向こうに幸せがあると。そう妖怪が言うのなら信じてみるのもいいのかもしれない。
「あら、紫じゃない」
「はぁい霊夢。元気? 相変わらずお茶ばかり飲んでいるのね」
「元気じゃない理由が無いから元気なんじゃないかしら。あと素敵な賽銭箱はそっちよ」
チャリン……コン。
「……あんたまでお賽銭入れるなんて、天変地異でも起こるんじゃないかしら」
「あら、お賽銭を入れる事で文句を言うなんて不思議な巫女ね」
「別にいいけどね」
縁側に座る霊夢の横に、紫が座る。
「さっき石段を昇っていたら、珍しいものを見たわ」
「あー……一体どうしちゃったのかしらね。魔理沙のやつ」
「見ていてあんまりにも鬱陶しかったから、空の彼方に消し去ってやったわ」
霊夢はぎょっとするが、それを余所に紫は空を見て、微笑むのだった。
―――夢を見たんだ。
色々なモノに置いていかれる夢。
今を取り巻く全てのモノから置いていかれるんだ。
自分だけがそこに留まり続けて、周りはどんどん先へと進んでいく。
追いつこうと必死にもがき、努力しても決して届かない。
遠い先を歩く霊夢やアリスが振り返り、遥か後ろで立ち尽くす自分を見て笑うんだ。
雲を飛び越えた。もう少し上まで行けば天界につくだろうが、もうここらで充分だろう。
「ここのどこに幸せがあるって言うんだ?」
何も、無い。誰も、居無い。
「……ここでなら、思いっきり泣いてもいいのかな」
気を許した途端、じわり、と涙が浮かんだ。
夢を見て、気づいた事。『霧雨魔理沙』は、今を酷く気に入っていた。
異変の絶え間ないこの幻想郷での日々。それを取り巻く全ての人たち。
その中で笑いながら生きているのがとても楽しくて。ずっとずっと続けばいいな、と思ってしまった。
だが、変化しない日常なんて存在しない。いずれ全て何もかもが変わって終わってしまう。
気付かされたのだ。永い時を生きる妖怪でさえ、変化から逃れ得る事は出来ない。
例え自分一人だけが変わらないで居ても、周りが変わってしまえば『今』は無くなってしまう。
自分だけが、『今』の永続を望んでいる。
皆で楽しくやっている日々なのに、それでも自分以外の皆は先へと進んでいく。
そしていつまでも立ち止まる自分を、返り見て笑うのだ。
『いつまで、そこにいるの?』
「……知らなかった。私は、こんなに弱い人間だったか」
やがて、涙は止まる。
「幸せは見つかりそうにないし、帰るか」
雲を突き抜け、魔法の森を目指す。
家の前に降り立つと、当然のように八雲紫がそこに居た。
「幸せは見つかったかしら?」
「さっぱりだぜ。やはり妖怪の言う事は信じるものじゃないな」
紫の横を通り過ぎ、家の中へ入ろうとする。
「―――山のあなた(彼方)の空遠く、幸い住むと人の言う。
嗚呼、われひとと尋(と)めゆきて、涙さしぐみかえりきぬ。
山のあなた(貴方)になお遠く、幸い住むと人の言う」
紫の言葉に振り返ると、やはりその顔は微笑みだった。
「遥か久遠の彼方に幸せがあると皆が言いいますが、探しに行っても見つからず涙を流しながら帰ってくる。
……そういう意味ですわ」
「まるでさっきまでの私だな。別に泣いてはいないが」
鏡を持っていなかった魔理沙には自分の目が赤いのかどうか知る術は無い。
「……幸せなんてどこにでも有って、どこにも無い。それでも幸せを感じたいのなら、先に進むしかないのではなくて?」
紫の言う事はもっともだ、と魔理沙は思う。
「それでも、『今』感じている幸せをずっと願う事は……悪い事なのか……?」
「進むことを捨ててまで感じる幸せは、幸せではない。……貴女はなぜそんなにも変化する事を恐れるの?
どれだけの時間を重ねた先で、どれだけの変化をした先で、霧雨魔理沙も博麗霊夢も幻想郷も……私でさえも、それ以外の何モノにもなりはしない。
進んだ先に、幸せが無いわけでは、ないのよ」
諭すように、導くように。紫の言葉は魔理沙に響く。
「本当に、お前は何でも知ってる風に語るんだな」
「私が知っている事は、知っている事だけですわ」
そして「じゃあね」と紫はスキマに消えていった。
「……してやられた。というよりはただのお節介っぽいな」
空を見上げる。木々の隙間から垣間見える青空は、いつもと変わらない空だった。
「変わらない空、か」
変化をし続けてもそれ以外の何モノにもなりはしない、と紫は言った。
『今』の幸せを望む霧雨魔理沙が、変化した先でそれでも霧雨魔理沙であるのなら。
そこに居るであろう霧雨魔理沙は、やっぱり『今』の幸せを望む霧雨魔理沙なのだろう。
変化した先での『今』を幸せと思う霧雨魔理沙が居るのだろう。
「よ、霊夢」
「いらっしゃい。まぁお茶ぐらいは出してあげるわよ。あと素敵な賽銭箱はそっち」
「今日は賽銭は無しだぜ。ここの巫女は賽銭を入れてもご機嫌が取れないからな」
いつもどおりの笑顔で、魔理沙は縁側に座った。手には紙袋を持っている。
「それに不思議な巫女には、賽銭よりコッチの方が嬉しいだろ?」
魔理沙が紙袋から取り出したのは人里で美味しいと有名などら焼き。
「解ってるじゃないの」
お茶を淹れた湯呑を魔理沙に渡し、霊夢は嬉しそうにどら焼きに手を伸ばす。
「ん~、美味しいわ~」
「そりゃ何よりだぜ」
同じように魔理沙もどら焼きを齧る。くどくない甘さにお茶がよく合う。
「この前は随分とおかしかったみたいだけど、もう大丈夫なの?」
霊夢は表情を変えずどら焼きを楽しむ笑顔のまま魔理沙に訊ねた。
「あぁ、あれはもういいんだ」
今日は時折強い風が吹く日だった。空に雲が流れていく。
「『今』の空も、『明日』の空も、結局は同じ空なんだと気づいたからな」
「ふぅん? 何だかよく解らないけど、明日このどら焼きを食べても美味しいって事ね。
ところでかなり沢山買ったみたいだけど、貰ってもいいの?」
「あぁ、残りは紫に渡しといてくれ」
「へぇ。あんたを空の彼方にぶっ飛ばせばどら焼きが貰えるっていうなら、毎日ぶっ飛ばそうかしら」
「やっぱ血も涙も無い巫女だぜ。お前は」
魔理沙は、今度こそいつもどおりの自然な笑顔を作る事が出来たのだ。