「さて。本日のお勤め……何となくサボりたい気分なんだけど……。
昨日、四季様にお叱りを受けたばっかだし。
それに―――、気は乗らないけど、ここでサボったら後悔するかも。ってあたいの勘が告げてるのよね」
とても大切なお客様
「ほら、やっぱり勘が当たった。
……久し振りだね。とうとうアンタも死んじまったのかい」
三途の川の船着場。
音もなく、漂うようにやってきた幽霊に小町は挨拶をする。
「生は楽しかったかい? これも何かの縁だ、今生の死はあたいがアンタを彼岸に送ってやるよ」
停めていた舟のロープを外し、小町が舟に乗ると幽霊もそれに続く。
三途の川は今日も凪いでおり、船酔いする心配は無さそうだった。
霧深い水面の向こう側、距離の測れぬ彼岸へと出発する。
ぎぃ……と舟木の軋む音。この音が唯一、船旅を表現できる音だった。
「……やたら憎まれ口を叩くクセに不思議と周囲からは好かれてたアンタの事だ。
きっと、この旅は短いものになるんだろうさ」
だから……。
「だから、出来るだけゆっくりと舟を漕いでもいいかい? 話したい事が山ほどあるんだよ」
喋る事の出来ない幽霊はただ舟の上に佇むだけだったが、それでも小町には頷いてくれたように見えた。
「そうさね……。アンタには何度か世話になったね。と言ってもあたいが仕事の休憩で顔を出す程度だったけどさ」
舟を漕ぐ小町は幽霊に背を向けたまま話し続ける。
「あたいが来るとアンタは不機嫌な顔をしながら、カルメ焼きを作ってくれたっけ。
アンタが孫に作るのと同じようにね。
孫といえば綺麗な金髪がちゃんと遺伝してよかったね。娘には遺伝しなくてちょっと悲しんでたろ、確か。
ま、当のアンタの髪はもう真っ白けだったけどさ。
……アンタの作るカルメ焼きは甘くて凄く旨かったよ。あぁいうのを職人技っていうのかねぇ。
絶対に焦がす事は無かったし、膨らみ具合も丁度いい食べやすさでさ。
まるで魔法みたいだと思ったよ。
あたいには、小さなお玉の上で星が弾けてるように見えてたんだよ。
そういや星はアンタが好きなモノだったけ。
先立った爺さんと馴れ初めた時も一緒に星を見に行ったりしたって恥ずかしそうに話してたの、あたいは覚えてるよ」
喋る事の出来ない幽霊に、小町はただ淡々と話しを続ける。
その表情は暗くはない。当然だ、死神が死に対して何を悼むと言うのだろう。
それでもこうして話をするのは、見知った顔の幽霊だからというのもあるだろうが、小町個人の優しさでもあるのかもしれない。
「まぁ、アンタが死んじまったから言うけどさ。
地獄では一般に、死神と生者の交流は喜ばしくないとされているんだ。
だってそうだろう?
人は死後を極端に恐れる。
生きてる人間から見れば、目の前の死神は自分の死後と来世を左右するおっかない存在だ。
いくらその場で殺される事がないからって、そうそう見たいもんじゃないだろう?」
そこで一度言葉を区切る。
未だ見えぬ彼岸を向いて舟を漕ぐ小町の顔は、少々照れていた。
「だからさ、
アンタが孫と接するのと同じように、あたいに接してくれたのが嬉しかったんだよね。
近所じゃ偏屈婆だなんて言われてたの、アンタが知ってたかは知らないけど。
少なくとも、あたいとアンタの孫や家族にとっちゃ、ちょっと顔の厳つい優しいお婆ちゃんだったんだよね……。
昔っからずっと黒い帽子を被っててさ。孫のごっこ遊びじゃいつも悪い魔女にされちまって。
……死神のあたいが言うのも何だけど、殺しても死ななそうな婆ちゃんだったのにねぇ」
やがて漂う霧の向こうに、薄ぼんやりと彼岸が見えてきた。
「おっと、もう彼岸に着いちまった。まだまだ話し足りないんだけど……まぁ仕方ないか」
小町が予想した通り、手厚く葬られたこの魂は、彼岸までの距離は短かった。
「いい判決が下るといいね。……ま、若い頃から色々やってきたアンタは難しいかもしれないけどさ」
初めから音は無く、また終わりにも音は無く。舟は岸へと停まった。
「……渡し賃は確かに頂いたよ」
いつの間にか小町の手には古銭の束が握られていた。
「それじゃあね」
舟から降りた魂は来た時と同じ、波間に漂うクラムボンの様に地獄へと降りていった。
「あーぁ。駄菓子屋の婆ちゃんも死んじゃったか……。休憩所が一つ減っちまったねぇ」
此岸に戻る舟の上で小町は一人愚痴るのだった。
もう今日は仕事をする気分じゃない。
叱られるのは重々承知の上でサボタージュを決意した。
……死神を嫌悪しない人間は、あと何人いるだろうか。そんな事を考えながら。