古くは、幻想郷縁起阿一著の妖怪録にも、それらしい妖怪が登場している。
その時代にあった姿で現れるという。
―――稗田阿求著 第百二十一季発行 幻想郷縁起 四十八頁 八雲紫の項より引用。
虹色の弑虐
幻想郷で最も力を持つ妖怪、八雲紫。その式である八雲藍は今日も主に代わって結界の定期検査を行っていた。
この仕事も随分と長い間続けてきたものだ、と仕事の手を止めず、思い耽る。
人の手では数え切れぬ年月を生きているというのに、やり続けてきた事があるというのが藍には可笑しかった。
ずっと続けてきた仕事。遥か昔に主から任された仕事。初めて手に入れた、認められたという証。
それが主から与えられた命である以上、式である藍は全力でそれを実行する。
もとより、地の性格が生真面目であるので、命が無くとも手を抜く事は無いのだが。
「博麗神社裏手側の結界も異常無しと。ま、ここは安定してるからな」
一通りの検査が終わった所で、藍の背後から声がかけられた。
「いつもお疲れ様です」
振り返るとそこには博麗の巫女が立っていた。
素性知るとはいえ妖怪相手に柔和な微笑みを浮かべている。
「あぁいえ、紫様から命じられた仕事ですから。……大分、巫女服が板につきましたね」
「本当ですか? だとしたら嬉しいです」
博麗の巫女は、満面の笑みを浮かべ、嬉しそうにふわりと白い袖をはためかせた。
「良かったらお茶でもどうです?」
「ありがとう。でも、この後別の用があるものでね。また今度頂くよ」
そうですか、と博麗の巫女は言う。
顔が少し曇るが、そこまで気にしたようではないみたいだ。
「それじゃ」
境内の土を蹴って、藍は空へと飛びあがる。
自身の行く先を気取られぬよう、しらばく無目的に空を飛び、その姿を突然消した。
紫が常に置いているスキマに潜り込んだためだ。このスキマは、八雲の家へと繋がっている。
一般にどことも知れない場所に建っていると言われる八雲の家は、藍でさえその所在を把握していない。
こうやって出入り口のスキマを通る事でしか辿り着けないからだ。
加えて八雲の家の周囲はどこまでも広い草原が広がっており、一定の距離を進むと家の裏側に出てくるという不思議仕様だ。
「紫様、ただいま戻りました」
紫の書斎に入ると、彼女はお気に入りの椅子に座って、藍を待っていた。
いつもの底の知れない笑顔を携えて。
この書斎は、八雲の家にあるただ一つの洋室で、ここだけが違う家、違う世界のようだった。
床や壁や天井は一様に木目が綺麗に流れており、雰囲気に合わせた本棚と大きな机が壁際に置かれている。
そして部屋の中央には、西洋ランプが置かれた一本足の丸いテーブル。
「お帰りなさい、藍。結界はどうだった?」
「何処も問題ありませんでした」
「そ。御苦労様」
「……それで、次の御用は何でしょうか?」
藍は一つ、違和を感じていた。今日は何だか主人の雰囲気が違う気がする。
いつもならば、こちらが苦笑いしてしまうようなおちゃらけた空気を纏っているハズなのに、今日はそれが無い。
それどころか、ひたすらに空気が重い。まるで屋根が深雪に潰れていくようだ。
「藍、ちょっとお話よ。そこに座っていいわよ」
「はぁ……では、失礼します」
あぁこのパターンは座ろうとした椅子がスキマに吸い込まれて私が転んでしまう展開か。
そんな予測を藍は立てる。今までに何度かあった事だ。
一回目はまんまと引っ掛かり、二回目は転ぶと見せかけてバク転をしてみせた。
三回目は始めから椅子が無かったようにその場で体育座りをしてみせたが……。
今度は、空気椅子でもしてみせようか。
などと対策を立てながら素知らぬ振りをしながら藍は腰を下す。
あれ?
特に何も無く椅子に座れてしまった。
「何かすると思った?」
「えぇ、まぁ」
「何もしない、という事をしたのよ」
言葉遊びだった。
長年付き添った主の性格は重々承知している藍にとっては何もかもが今更だ。
だが、いつも通りの言葉を放つ主の顔は、いつも通りではなく。今までに一度しか見た事の無いモノだった。
あれは確か、そう…………博麗霊夢が……。
「藍。考え事はいいけど、今は私の話に付き合ってくれる?」
「あ、すみません。紫様」
さて。と紫は腕を伸ばすとスキマを開き、その先からお茶とお菓子を取り出した。
それを部屋の中央に鎮座するテーブルに載せる。
「まずはお茶を飲みましょうか」
「あ、紫様、私が」
「いいのよ。今は。藍は大人しく座ってなさい」
主の命令とあらば仕方無い。と藍は上げた腰を再び椅子に下ろす。
「ひょん!?」
ずてっ、と尻餅をついた。
「ふふふ、油断大敵よ藍」
紫の言葉通り、油断したッ! と藍は心を震わせる。
まさかあの腰を浮かした一瞬を狙って、椅子をスキマに隠すとは……!
「クスクス。あぁ可笑しい。変な声が出てたわよ、藍」
「……むぅ」
自分の顔が紅潮しているのを感じながら、藍は居住いを正し、今度こそ椅子に座り直す。
その間に紅茶が二つ、淹れ終わっていた。
「さて、それじゃ乾杯しましょう」
「ティーカップで、ですか?」
「何事も常識に囚われてはいけないのよ」
そうですか。と返し、ゆっくりとティーカップを打ち鳴らした。
その手をそのまま口へと持って行き、一口流し込む。
どういう淹れ方をすればこうなるのだろうか。
その紅茶は熱すぎず温過ぎず、そして何も入れてないハズなのに渋みを殆ど感じないとても美味しい紅茶だった。
「それで、お話というのは……」
ティーカップをソーサーに戻して、藍は主の方を見た。
「覚えているかしら、博麗霊夢を」
「それはまぁ。何だかんだで一番多く関わった博麗の巫女ですから」
「私は……あの頃が一番楽しかったわ」
「………………」
その主の一言に、藍は返す言葉を迷った。
何より、そういう感傷的な言葉を紫が言った事に戸惑いを隠せなかった。
「今の博麗の巫女は、霊夢の孫の孫だったかしら」
「はい」
「とてもよく頑張っているわよね。修行嫌いだった霊夢の血筋とは思えないほど。
まだまだ未熟ではあるけど、巫女になってから数年だというのに異変をもう二つも解決してる」
「そうですね。若干、妖怪にフレンドリーすぎる所はありますが」
藍は先ほどの、巫女の笑顔を思い出す。
博麗霊夢は人間にも妖怪にも一線を引いて公平に接したのに対して、
今代の巫女は人妖分け隔て無く友好に接する事で公平さを保っていた。
それではいずれ双方からの好意という名の重圧に潰されてしまうのではないか、と藍は懸念していた。
が、主が何も言わないので特に気にしてはいなかった。
「あの娘は妖怪に理解があるのよ」
紫の言葉からは、慈愛が感じられた。
同じ幻想郷の結界を守護するモノとして、紫は代々博麗の巫女と関わってきた。
時には修行をつけたり、時には一緒に異変を解決したり、時には異変を解決させたり。
それは別に五代前の博麗の巫女―――霊夢だけに限った事では無かった。
「それでもね、私は博麗霊夢の居た頃が一番好きだったわ。
あの子だけじゃない。あの子の友達や、あの子を慕う様々な人妖。彼女達が、博麗霊夢を中心に作り出す空気が私は好きだった」
遠くを見る目で紫は寂しげに言葉を並べていく。
そうだ主のこの顔を見るのは二度目だ。
一度目は……数百年前、博麗霊夢が死んだ時も紫様はこんな顔をしていた……、と藍は思い出す。
「だから、霊夢が死んだ時は本当に悲しかったわ。霊夢の死を悲しむ多くの人妖を見るのも悲しかった」
一番泣いたのは多分私なんでしょうけどね、と紫は呟く。
話を聞く藍は、こんな紫をこれ以上見たくないという気持ちで一杯だった。
確かに霊夢が亡くなった時、紫は泣いていた。それを藍は見ている。
藍自身も、霊夢本人と関わりは少なかったが、決して知らぬ仲ではなかった。
だから、悲しみもした。それでも数日後にはいつも通りだった。それは主だって同じ事。
長い時を生きる妖怪は、人間の生き死にを一々気にしていたらキリが無い。
一人の人間の死を引きずるような事は……愚の骨頂だ。
だからこそ、自分の中で絶大な高みに立つ紫が、そんな愚を犯している姿をこれ以上見たくなかった。
「駄目よ。私の話を聞きなさい」
そんな心情を気取られたのか、紫は再びその命令を言葉にする。
そう言われては、藍は聞き続けるしかない。
「ねぇ、藍。八雲の名を連ね、いずれその色が七つ揃う時が来ると思う?」
虹の七色。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
最上の紫は紫。その次の藍は藍。まだ力足らずの橙は橙。
「時が経てば、橙は青になり、やがて更にその式が緑や黄という名を持つ……のではないのですか?」
私が藍の色を名付けられたように。主が紫の色を名乗るように。
藍の問いに、紫は答えなかった。そして、一分程の間を置いて、静かに告げる。
その一分は藍にとっては長い一分で。
紫にとっても長い一分だった。
「……藍」
永遠を感じるような一分を、紫の言葉が断ち切る。
「これから言う事を勘違いしないでね」
紫はそう、前置いた。
「私は霊夢の後を追いたいわけではないわ。けれど」
藍は息を呑む事しか出来ない。
「貴女の手で私を殺しなさい」
それが主から式に、とうとう下された命令だった。
自身が式神でありながら、橙という式神を扱う八雲藍。
藍は、紫の目から見ても、とても優秀だった。
優秀だったから最初から“彼女”を『藍』と名付けたし、式神にして良かったと紫は心の底から思う。
『八雲』の姓を授けたのが思ったより早かったのが嬉しい誤算だったのも、いい思い出だ。
「紫様……」
八雲の家が建つ無限平原。紫が張っていた結界を弄ると、ループする壁をあっさりと越えた。
今はあんなにも遠くに家がある。それでも、この草原は果てが見えない。
二人……八雲紫と八雲藍は、一定の距離を保ったまま同じ歩調で歩いていた。
「紫様。私には解りません。弑逆する理由が……ありません!」
何処をどれだけ探してもそんなモノが私の心から見つかるハズなんて無い。と藍は叫ぶ。
「―――私はかつて、八雲藍だった」
藍の言葉を無視して、紫は独白を始める。
「どういう、事ですか?」
「言葉通りよ。私は遥か昔は八雲藍として、”八雲紫”に式神として行使されていた」
「意味が解りません……!」
「貴女の頭なら解るハズよ、藍。私の誇るべき式」
藍はその言葉に取り乱しそうな自分を必死で抑えた。
いつもの主の戯言だ……などと笑える空気ではない。そうではない事を紫の顔が、声が、態度が、否応なく悟らせる。
なら……目の前の主がかつて八雲藍だったというのは……それが事実だとするのなら……。
「”八雲紫”は、代変わりするのですか。博麗の巫女のように……?」
「そうよ、流石藍ね。ちゃんと考えられる頭を持っている。
幻想郷縁起にも記されていたでしょう? 八雲紫は、その時代にあった姿で現れると。
それは単に、同一人物というワケではなかったからよ」
八雲の姓を冠していながら知らなかった事実が、次々と藍に突き付けられていく。
そして幾年月と紫の下で鍛えられて出来の良い頭を持つ藍は、気付きたく無い事実に次々と気付いていってしまう。
「……だから、式神を扱うのですね。八雲は」
「えぇ、自分の力を別の誰かに式神行使というカタチで注ぎ続ける。
そして、長い時間をかける事によって式神の性質が自分の性質に近づいていく。
藍、貴女も十分過ぎる程に私の力を注がれてきた。だから、貴女はあと一つのキッカケがあれば”使える”はずよ」
藍は自らの式神である橙の事を思い出していた。
昔に比べれば橙も随分と成長をし、今では結界管理の手伝いもこなす。
だが、自分は何も知らずに橙を式神として見初めた。
ただ尊敬する主の真似事として。主に褒められたくて、主に自分の成長を知ってもらいたくて、主に……。
本当にただそれだけの気持ちで、橙という式神を使役するようになった。
その過去の行いに、藍は己の無知を恥じた。恥じる以上に、軽率な事をしたのではと後悔が押し寄せた。
「本当は……霊夢が死んだ時に私も死のうかと思ったわ。
でも、残念ながらあの時の藍は、未だ私を殺させるまでには至っていなかった。
そういう意味では、霊夢の後を追うなんて感傷任せの愚行を犯さなくて本当によかったわ」
尚も紫は、己の心の内を吐露していく。わざと藍の気持ちを無視するように。
「着いたわ」
やがて二人の足が止まる。
そこは未だに草原のど真ん中ではあったが、目の前には石が二つ並べられていた。
まるで墓石のようだ、と藍は思う。……思ってから、それが答えなのだと至る。
「先代と先々代の”八雲紫”の墓よ。じきに私もここに並ぶ」
そして貴女も―――と紫は言えなかった。
「さぁ藍。弾幕ごっこをしましょう。ただし文字通り『命』を賭けた、ね」
「……紫様」
「失望させないでね、藍」
すぅ、と紫の体が宙に浮かぶ。数瞬遅れて藍もその体を宙に浮かした。
やがて二人は、空中で対峙する。
「……何故、”八雲紫”は代変わりしなければいけないのですか? 自ら身を引かずとも、ずっと紫様が居てくだされば!」
「藍。それじゃあダメなのよ。私は亡霊と違って、いくら長くとも終わりある命なの。
それに同じ一人が高みに長く居続けては何事もダメになるだけなのよ」
澱が沈むからね、と。
「認めなさい藍。貴女が私の式だと言うのなら、見事私を乗り越えて見せなさい!」
紫の背後に小さなスキマがいくつも開き、そこから無数の光弾が飛び出した。
光弾はそれぞれが弧を描きながら、藍を覆うように飛来する。
藍は大きく後ろへと身を逃し、光弾を避ける。眼前で無数の光弾が一つになり、大きく弾けた。
その衝撃波に、藍は身を揺らされる。だが、ダメージにはならない。
それはさながら……、死合の開始を告げる鐘の音だった。
「でも、私は……紫様を殺したくないです!」
藍の悲痛な叫びに紫は応えない。
無言のまま、なおもスキマを展開していく紫。そこに一切の躊躇いは無い。
「紫、様……」
なんでこんな事になったんだろう。と藍は泣きたくなった。
昨日までは主従で……家族だった。それが何で殺し合いなんか……。
「―――空餌『狂躁高速飛行体』」
スキマから飛光虫が弾ける。乱雑に設置されたようで、その実一分の隙も無い射線を織り成す飛光虫の雨。
藍は回避しきれないと判断し、両の腕で体をかばった。
一つ、二つ、三、四、五…………一万。藍を襲った飛光虫はそこまで数えて、降り止んだ。
わずか数秒で一万もの衝撃を浴びても、防御姿勢をとる藍にダメージは殆ど無かった。
何故ならば、彼女は最強の妖怪である”八雲”の式だから。
「ッ……」
乗り越えてみせなさい、と紫様は仰っられた。そうだ、そのために私は紫様の下で己を磨いてきたハズだ。
……具体的に、どう乗り越えるのか。それを考えた事は無かった。
何をどうすれば紫様を越えた事になるのか。
答えはただ一つ、倒すしかない。殺すしかない。己の力を以って、打ち倒すしかない。
それは、藍にとって紫を殺すに足る理由……とは言いきれなかったが。
“八雲藍という式を被された妖怪”としての本能が、決を下した。
躊躇うな。…………躊躇いを焼き尽くせ!
その瞬間から藍の意識は影を潜め、代わりに闘争本能が剥き出しになる。
「行符『八千万枚護摩』!」
妖力で編んだ八千万の霊符を扇状に射出、それによって紫の動きを制限し本命の火炎弾を両手から乱れ撃つ。
対する紫は、それら全てを迎え撃つように、右手を突き出す。
「―――境符『四重結界』」
青白い光を放つ正方形の境界を四つ重ね、迫りくる八千万の札と火球を防ぐ。
「くっ……」
防ぐ札が五百を数える度に、火球を一つでも防ぐ度に、盾となる結界が歪に軋む。
「本当……成長したものね、藍は」
親が子の成長を喜ぶ……その気持ちを紫はここで初めて知った。
まるで人間のようだ、と心の中で笑う。自分はこんなにも妖怪らしい妖怪なのに。
妖怪らしく長い時を生きて、最後の最後でちっぽけな人間の気持ちを知るなんて。
「超人―――『飛翔役小角』!!」
一際大きな衝撃が結界を支える腕に響いた。
八千万の霊符と無数の火球に紛れて、藍自身が炎を纏いながらぶつかってきたのだ。
力を込めるため、紫は両手で四重結界を支えるが、藍の勢いは衰えずやがて……四重結界が音も無く割れた。
「!」
盾を失った紫は体制を崩し、そこを山を転がる焼石のような藍が射抜く。
激突を受けた紫は、服を焦がし、火傷を負い、右腕を折られ、勢いのまま吹き飛ばされる。
受けたダメージに僅かばかり意識が飛ぶが、腕の痛みによってそれを取り戻した。
紫は空中で体制を整え、急いで藍の方を顧みる。
余程自分が大きく吹き飛ばされたのか、藍の突進に勢いが付きすぎていたのか、かなり距離が離れていた。
間合いが遠い。攻撃準備の時間がある。そう判断し、紫は次の攻撃の手を繰り出そうと、スキマを展開し始め……。
「―――空餌『狂躁光速飛行帯』」
瞬間、紫の左腕が光の帯に撃ち抜かれた。
痛みに呻く前に、これはもう使い物にならないなと判断し、構わず紫はスキマを展開し続ける。
今のは間違い無く藍の攻撃だ。
足りなかった最後のキッカケ一つ。本能のままに戦う事でようやく届いたか。
元より藍が使おうとしていなかっただけだから、気が向けば使えて当然ではあるのだが。
紫の飛光虫よりも輪をかけて速く、光速で飛来する光の帯を紙一重でかわし続け、スキマを展開し続ける。
やがて、紫の背後に大きな大きな黒い裂け目が完成した。
「染まりなさい。―――魍魎『弐色煉死蝶』」
巨大なスキマから、空を紫色に覆い尽くす大量の黒死蝶が羽ばたいた。
赤く仄めく黒死蝶は直進し、青く仄めく黒死蝶はひらひらと不規則に舞いながら藍を襲う。
かと思えばその逆の動きをし、色で区別しようとすると途端にパターンが読めなくなる。
その動きが予測できない黒死蝶の群れに藍はなす術なく飲まれ、やがて黒死蝶が爆発する。
……かのように思われたが、何も起こらない。紫は異変に気付く。
藍へと飛んで行ったハズの黒死蝶たちが自分の方へと向かってくるのだ。
いや黒死蝶は前へと向かって飛んでいる。だが、背面を向いたままこちらに来るのだ。
「真逆……」
紫は振り返る。自身が開いた巨大なスキマを。
黒死蝶たちはまるで逆再生されてるみたいに、そのスキマの中へと戻って……引きずり込まれているのだ。
「藍、そこまでやってくれるとはね」
感嘆の声を漏らす他無かった。
代々“八雲紫”が扱う境界を操る程度の能力。それは無限の計算を可能とする頭でなければ扱えない。
物事の境界を弄るという論理破壊は、論理による計算の元に成り立つからだ。
故に八雲の名を持つ者は、数字に強くなければならない。
そして、計算式はより効率的な計算式によって蹂躙される。
藍はやってのけた。紫が構築した計算式をより優れた計算式によって蹂躙し、紫が展開したスキマをクラッキングしたのだ。
やがて深淵の闇のようだった空は晴れ、黒死蝶は一匹残らずスキマの中へと引き戻された。
次で最後だ、と紫は見立てる。本能のまま闘う藍もそれを察する。
かなりのダメージを負いながら、巨大なスキマを展開した紫。
序盤に手数で押し、果てには紫の展開したスキマを乗っ取った藍。
互いに、かなりの力を消耗していた。だからこそ、次の一撃で終わり。
ジリジリと二人の距離が詰まり……、最後のカードが切られた。
「―――結界『生と死の境界』!」
「―――結界『生と死の境界』!」
一方より三色の、もう一方より四色の弾と弾がぶつかりあい、虹色を宙に咲かせた。
やがて虹の光は束ねられ、混ざり合い、そして無色となる。
虹が消えた時、そこには藍色だったモノが勝利者として立っていた。
八雲紫は、草の上に倒れていた。
まだかろうじて息はあるものの、あと数分も経てばこの命は終わるだろう。
よろよろとふら付く足取りで傍らに藍が辿り着く。よく動けるものだ……とまた感心した。
受けていたダメージ量が違うとはいえ、最後の攻撃は確かに藍に命中したはずだ。
それでなお、自分の元へ駆けつけられるとは……。なんて、なんて誇らしい私の式神。
「ゆかり、様……」
駆け付けた式は、ボロボロの顔だった。
「私の負け、ね。これが今代の”八雲紫”の終わり。これからは、貴女が”八雲紫”となるのよ……。
境界を操る……それを持つ者は”八雲紫”一人でなければならない……強すぎる力は孤独でなければならないから……」
「ゆかり、さま……ッ」
駆け付けた式は、ボロボロの顔だった。
「……”八雲紫”の最初の仕事は、『八雲紫と八雲藍の境界』を弄って、皆に貴女を八雲紫と認識させる事ね。
そして私の最後の仕事は、橙に八雲の姓と藍の名を与える事……。
……でも、”八雲紫”が嫌だと言うなら、橙は……八雲に名を連ねなくてもいいわ。
とりあえず姓は与えておくから、後は剥奪するなり何なり好きにしなさいな……」
「紫様……ッ」
駆け付けた式は……ボロボロと涙を流していた。
「能力を使い続ければ、いずれ今までの”八雲紫”の記録を貴女も引き継ぐでしょう……」
「嫌ですッ、私は……! 紫様!」
「”八雲紫”、結界の管理頑張るのよ。幻想郷を大事にしてね……」
「私は……ッ」
「……………………藍。ありがとう、ね」
「紫様!」
最後に、藍と呼んだ八雲紫は、眼を閉じた。
草原の墓石は三つになった。
「……そうですか。大変だったわね」
全部が終わった頃、藍は白玉楼を訪れた。
紫が遺した手紙を、親友であった西行寺幽々子に届けるためである。
おそらく事情の説明であろう手紙を読み終えた幽々子は、藍を優しい目で見つめた。
「貴女の式には説明したの?」
「いいえ、あの子には何も。ただ紫様が亡くなられたとだけ。
紫様が私に何も教えなかったように、私も最後の時まであの子には言わないでおこうと思います。
あの子がいずれもっと強くなった時に……」
「そう……」
障子を隔てた向こう、白玉楼の石庭から添水の音が響く。
幽霊行き交う冥界で聞くその音は、まるで鈴を打ち鳴らしているかのようだった。
「何か私に聞きたそうね?」
藍の視線を察したのか、幽々子はそう訊ねた。
「いえ……あの、幽々子様は……お怒りではないのでしょうか。その……、私が紫様を……」
「貴女が私の親友の紫を殺した事で、怒って無いか?」
「は、はい……」
ハッキリとした言葉にされて、藍は少しだけ身じろぐ。
幽々子は持っていた扇子を閉じると、それで藍の頭を軽く叩いた。
「”八雲紫”ともあろう妖怪が、たかが亡霊のご機嫌を伺ってどうするっていうの?
貴女が”八雲紫”だと言うのなら、もっとそれらしく振舞いなさい。私が怒るとすればその一点のみです。
……ところで私からもう一つ聞きたいのだけど。
貴女が『八雲紫と八雲藍の境界』を弄ったら、私は貴女を親友の紫だと思ってしまうのかしら?」
「いえ、そのような事は。
皆が私を”八雲紫”と呼ぶようになるだけで、私と紫様が同一人物になるわけではありませんので……。
幽々子様……私は”八雲紫”の名と能力を受け継いで、同時に八雲の記録を受け継ぎました。
紫様の前に、お二人の”八雲紫”が居たのですが……紫様はそのお二方とは違った事をしようとし、またしてきたようなのです。
前のお二方は幻想郷を作った時点で満足し、紫様はそれで終わらず幻想郷をより良くしようと尽力なされました。
……私にも、そのような事が出来るのでしょうか」
「それは、貴女が決める事でしょ。
ただ一つ確かなのは、そういう事をしてきた紫が選んだ式は貴女、だという事よ。
他の誰でも無い、貴女なの。それでいいんじゃなくて?」
「……はい、ありがとうございます。幽々子様」
「ふふ。気持ちの整理がついたら、幽々子、と呼ぶようにしなさいね」
白玉楼より外に出ると、式が待っていた。
「…………”藍”、お待たせ。行くよ」
「……はい、”紫”様」
まだぎこちないが、我々は妖怪故、時間は長くある。こんなのは次第に慣れていけばいい。
自信を持て。私は八雲紫にして、八雲紫の式だった妖怪だ。
それでは、最初の仕事をこなすとしよう。